こんにちは、みやまです。
今日はゲーテの戯曲「ファウスト」を読みましたので概要やら感想やら調べたことやらを書いていきます。

戯曲とは
演劇の台本や脚本のこと。また、登場人物の会話や独白などで物語が進んでいく形式で書かれた文学作品を「戯曲」と呼ぶそうです。(コトバンクより)
小説というよりは、舞台台本を読んでいるような感覚です。実際の台本は読んだことが無いのですが、このような感じなのかなとイメージしやすい文章でした。誰が話しているのか、誰目線の表現なのかが直ぐに分かるので、登場人物の整理や理解がしやすかったように思います。
学生時代に寺山修司の戯曲さらば映画よ(毛皮のマリー・血は立ったまま眠っている)を読んだことがあるのですが、これも小説とは違い登場人物の独白でストーリーが進んでいくので、人物それぞれの価値観がとても濃く詳細に表現されているという印象がありました。登場人物の価値観が色濃く表現されるということは、作者自身の価値観や考えも同時に文章として表現されている可能性がある…と思っています。
今回の戯曲ファウストも、ゲーテの考えに触れる部分があるのではないかと期待しているところでした。
ファウスト伝説
ファウスト伝説、というものがゲーテの戯曲ファウストのいわゆる元ネタのようですね。ウィキペディアにも結構詳細に記載してあるのですが、その他のサイトや後書き・解説なども参照すると、ファウスト伝説はもともとドイツに実在していた人物がモデルになっているようです。
神学や医学などを修め、学者としてとても優秀な人物だったファウストですが、人生に満足しておらず自害しようとします。現れた悪魔メフィストフェレスと契約し、ファウスト死後の魂を悪魔に渡す代わりに、現世では知識や快楽などこの世のあらゆる素晴らしい体験をしていく…というのがメインストーリーです。最終的には悪魔に魂を取られて地獄に堕ちるのが一般的な伝説のようですね。
ゲーテのファウストも基本的にはこの伝説の通りではありますが、最終的にファウストは「絶えず努力して励む者を、われらは救うことができる」として天使に連れられて神に許される点で結末が異なっています。
キリスト教の教えに背いて悪魔と契約したファウストをどう解釈するかは、時代によって変化があるのかもしれません。
ファウスト第一部
第一部はグレートヒェンの悲劇と題されます。ファウストが悪魔メフィストフェレスと契約し、素敵な女性グレートヒェンと出会って分かれるまでが第一部のお話です。
物事を知りたいとして多くの学問を修め、学者として努めてきたファウストですが、「人間すべてを知ることはできない」とがっかりして自害しようとします。結局、外から聞こえてくる歌声に癒され、青春時代の楽しさなどを思い出して踏みとどまります。
正直、数十年しか生きていない人間が万物を知ろうなどというのは、正直おこがましい欲なのではないかと思うのです。だからこそ、万物を知ることができないから自害しようとしたという満たされない知識欲はファウストの大きな特徴のように感じます。
自然の真理を探究し続けるファウストは神様のお気に入りでもあったために、暇を持て余した悪魔メフィストフェレスに紹介されてしまいます。メフィストフェレスは自分ならファウストでさえも堕落させられる!とウキウキで会いに行ってしまいます。
メフィストフェレスと出会ったファウストは、今この時が重要であり死後の魂のことはどうでもいい!として、悪魔と契約します。人生に退屈している様子は、「アルジャーノンに花束を」の主人公が天才になっていくシーンを思い出させました。何もかもを学び、何もわからなかったというのは大きな絶望なのかもしれないですね。
メフィストフェレスと契約したファウストは、素敵な女性グレートヒェンと出会います。悪魔の力を借りて口説き落としたものの、婚姻関係がないままにグレートヒェンを妊娠させてしまい、その怒りをぶつけてきたグレートヒェンの兄を路上で殺害してしまいます。これだけでもファウストは酷いやつだと思わざるを得ません。
ファウストとグレートヒェンの出会いの部分、お互いが好きになっていく過程についての描写はあったものの、その後グレートヒェンがお腹の子を産むまでのおよそ10か月間の描写はありません。生まれるまでの期間、ファウストは何をしていたのか。彼女の兄を殺害して逃げていたと思うのですが、メフィストフェレスの計らいで魔女が集まる祭りに参加している様子が描かれていました。どうして愛し合った人と子を放っておいてお祭りなどに参加できるのか不思議ですが、そういう人なのでしょうね…。
グレートヒェンは私生児を妊娠したことで孤立し、同居していた母と産み落とした子を自ら手にかけてしまいます。重罪人として牢獄の中で死刑を待つことになりました。魔女のお祭りの最中、グレートヒェンのことが気がかりになったファウストは、獄中にいるグレートヒェンを助けるべくメフィストフェレスと牢獄へ向かいます。
およそ一年ぶりに再会したファウストとグレートヒェンですが、グレートヒェンは度重なる不幸で精神を病み、ファウストを見てもファウスト本人であると認識ができないほどでした。脱獄しようというファウストの説得に対し、彼女は自らの罪を償うために牢屋に残る選択をします。グレートヒェンはその行いから最終的に神に許され、天国へ行くことができました。
悪魔と契約した人間に惚れられたがために、私生児を生み、母と子を自ら手にかけて、最期には牢獄へ掴まり精神を壊してしまったグレートヒェンの悲劇…というのが第一部です。現代に生きる私の感覚だと、相当に酷い話と感じます。出会って妊娠させられて兄を殺されて、妊娠期や産後のしんどい時までずっと音信不通だった挙句、いよいよ覚悟を決めて罪を償う(死刑を受ける)という時に、助けたい!などとひょっこり出てくるファウストの自己中心的な感覚…なかなか理解するのは難しいです。悪魔と契約しているくらいですから、そういう人だとは思うのですが、何というか天使とは言わないので慈悲くらいないものか…と苦しくなりますね。
ファウストの助けるとはどういう意味での助けるだったのか。今死刑から免れたとして、その後どのように生きていくかまで考えていないように思います。福祉などない時代と思いますので、それぞれ自己責任で頑張れ!ということなのでしょうか。
ファウスト第二部
第二部については、メフィストフェレスと計画して2人で皇帝に取り入ったり、最も美しいというヘレネーという古代の幽霊を現代に呼び出して子どもを産またり、戦争に参加したり、戦争に協力したお礼に土地を貰ったり、と色んなことをやっています。最終的に亡くなったあと、メフィストフェレスではなく神に救われるというのがゲーテのファウストです。
色んな人物が出てくるのですが、中でも面白かったのはキリスト教の悪魔であるメフィストフェレスが、ギリシャ神話の神々や魔族と会話するシーンですね。ヘレネーの魂を我が物にするため、ファウストはメフィストフェレスとギリシャに渡ります。正直キリスト教よりもギリシャ神話の知識の方が必要でした。神様がたくさんいらっしゃる。
ファウストは第二部でも女性を妊娠させています。今回は生まれてきた子どもがイカロスのように飛び回っていたところ、落ちて亡くなってしまい、母であるヘレネーは子を独りにさせまいと子に次いで霊の世界に帰ってしまいます。正直、亡くなった方を呼び戻すこと自体、死が安らかなものではないこととなってしまうと思うので、読んでいて心苦しいところがあるのですが、これが悪魔の力ということなのでしょうね。
ファウストは戦争に加担し、海という土地を貰います。メフィストフェレスの力で海さえも干上がらせて、その埋め立て地をたくさんの人が住むことができるように開拓しようと試みます。開拓しようと実際に働いているのはメフィストフェレスの部下である死霊など、この世のものではない生き物たちでした。
ファウストは自身の土地に宮殿を建てて、自身の土地が開拓されていく音を聞きながら過ごしますが、宮殿から見える小さな小屋に住む老夫婦の土地が自分のものではないことに不満を持ちます。そうして、メフィストフェレスに相談した結果、メフィストフェレスから指示された悪魔の下部は、夜中に老夫婦の住む小屋を燃やしてしまいます。結果的に夫婦や偶然居た旅人さえも殺して、その土地をファウストのために奪ってきたのでした。ファウストは悪魔にそんな風な相談をしておきながら、「軽はずみなやり方が内心腹立たしい」「無力な暴力沙汰を呪っている」などと、自分が望んで伝えたことの責任を悪魔に擦り付けています。全くここでも無責任さが腹立たしいですね。
悪魔の術を使って戦争や海ですら思いのままの結果にしているというのに、ファウストはどんな快楽にも飽き足りず、どんな幸福にも満足しませんでした。ものすごい欲深い人間であるような気がします。
ファウストは海から得た埋め立て地を開拓しながら、その土地に住むであろう人々の生活を想像して、「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、自由と生活とを享くるに値する」と話しました。自分が地上で生活した痕跡が残るような街にしたかったのだと話しているさなか、メフィストフェレスと契約した言葉を発して絶命します。
「とまれ、お前はいかにも美しい」
亡くなったファウストの身体から魂が出てくるのを待っているメフィストフェレスでしたが、天から現れた天使たちの邪魔にあい、愛の炎に焼かれながら苦しみます。そうこうしている間にファウストの魂は天使が天に連れて行ってしまいます。ここまで一生懸命に頑張っていたのに、メフィストフェレスはファウストの魂を得ることができませんでした。
ファウストをどう解釈するか
無責任な感じのするファウストですが、繰り返し出てきた印象的な文をメモしていましたので、そこから現代にも通じるものがあるのではないかと考察してみます。


自分が思っているよりも理解は浅く、本質からは遠い
ファウストはいくら学問を修めたところで人間には何も知ることができないと絶望していました。人間が知ることのできる範囲には、自然の本質が含まれていないということと思います。
作中でも、「この世に不足のないところはございません」「妄想の尻尾を捕まえて、これぞ真実と思っているにすぎない」など、人間の理解の浅さ、理解が及びきっている場所などないことに触れられているように感じます。
また、「人間というものは望んで得たものをしっかりと握ってはいないで、愚かにももっといいものが欲しいと憧れ、一番すばらしい幸福にもすぐ慣れっこになってしまうのです。せっかくの太陽を見棄てて、冷たい露霜を暖めようとする。」と文中にありましたが、人間の飽き性、尽きない欲、望んで得たものの本質を理解しようとしない性質があると解釈しました。一つの事象を深く考えないことは、理解も浅く、本質からも遠ざかるように思います。
絶えず努力すること(行動すること)が重要
「真理を探究し続けるものは最後には神に救われる」ということで、励み続けることの重要性は何度も出てきたように思います。
会話の中でも、「迷いがあって初めて分別を持てるようになる」「人間は精を出している限りは迷うものなのだ」と繰り返し、継続した努力の重要性が描かれています。あれだけ酷いことをしたファウストも、最終的には「絶えず努力して励む者を、われらは救うことができる」として、天に昇っていきました。時代背景などもあっての表現とは思いますが、努力を継続することそのものは尊い行為であると思います。
ファウストが魅力的に感じる人間像として「朗らかに楽しく生き、動く人間の姿」「端麗な美は自己満足、惹きつけるのは動きのある優美」などと述べていました。アクセサリーなどで飾り立てた美よりも、仕事や学業など絶えず行動している人間の美しさに惹かれていたと解釈しています。
第二部では、ファウストは行為の人と表現されます。考えるだけでなく、行動する人であれ、ということと思います。亡くなる寸前のファウストは憂いを感じ、「人間は一生涯盲目なのです。幸も不幸もともに悩みの種になり、豊かでいながら飢える。ただ未来に恃むばかりで、ものが出来上がるということがない。」と言われますが、「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、自由と生活とを享くるに値する」として、日々の生活は自分で闘い取ること、すなわち行動するからこそ自由と生活を受けることができるのだと反論しています。
「功労あっての幸福ということを愚人は悟るときがない」幸福をつかみ取りたければ行動するのみ!という印象すらありますね。
悪魔メフィストフェレス
否定の霊として登場したメフィストフェレスですが、ファウストの魂をゲットするためにたくさんの願いを叶えてきました。想い人と両想いにしたり、故人を蘇らせたり、皇帝に取り入ったり、戦争を勝たせたり、海を干上がらせたり…悪魔のパワーは凄まじく、人間では到底及ばない力と思います。
結局ゲーテのファウストでは、ファウストの魂は天使に持っていかれてしまうわけですが、悪魔の「努力」は報われないものなのか?という疑問が生じます。
神は「ファウストはどうか」とメフィストフェレスに勧めましたが、ファウストが救われるのが分かっていてのことであれば、何というか神が意地悪に見えますよね。悪魔を擁護するわけではないのですが、得ることができない獲物をあえて悪魔に勧めるのは何というか、ちょっとなぁという感じがあります。神だから許されるのかもしれません。
つい日本に暮らしていると、神も悪魔も人間が触れてはならない不可侵のものとして同じ様に考えてしまいます。キリスト教においては明確に、悪魔は退けるべきものとして考えるべきなのかもしれませんが、ついつい悪魔も神の一種なのではないかという気がしてしまいますね。
ファウスト伝説においては、メフィストフェレスがファウストの魂をゲットできる展開が一般的ではあるようなので、「真理を探究し続ける」ことで救われるのはゲーテの価値観の現れかもしれません。
後書きの解説で知りましたが、ゲーテは73歳にして19歳に振られているようです。すごい。ファウスト作中の美人に弱い感じとか、グレートヒェン直後のヘレネーとか、時代背景とゲーテの人柄が作中に現れていそうだなと思っています。
ゲーテの戯曲「ファウスト」難しそうな印象がありましたが、読んでみれば面白く、良い読書体験になりました。
もともとはキリスト教の信仰をより広め、神を信じていくための物語だったのかもしれません。